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信仰、信心と精神医学 精神科産業医が解説+

いま、統一教会、宗教二世に絡む裁判が行われている。
だからというわけではないが、
今回は信仰、信心について考えてみます。

信仰や信心という言葉は、どうしても“宗教の話”と思われがちですね。
けれど、精神科産業医として働く人の心に向き合っていると、これはもっと広い概念だと痛感します。

結論から言えば、信仰・信心とは「人が自分を支えるための軸」そのものでしょう。
宗教であっても、家族観であっても、人生哲学であっても、その人の中で一貫性をつくる支柱になります。

以下では、信仰とメンタルヘルスの関係を、私の診療経験も交えながら整理してみます。

信仰・信心とは何か:宗教より広い「心の働き」

「信仰」は超越的な存在や理念への信頼を指し、
「信心」はその“心から信じる姿勢”そのものを言います。

精神科医として見ていると、

  • 宗教を持っていてもいなくても
  • 哲学的でも、家族中心でも、キャリア中心でも

誰しも何らかの“心の軸”を持っているのが実態ですね。
人は空白に耐えられません。

信仰がメンタルヘルスに及ぼす影響

信仰や信念体系は、ストレスの多い社会で働く人にとって、大きな精神的支えになります。

心の軸があることで得られるもの

  • 判断基準がぶれにくい
  • 不確実性への耐性が上がる
  • 困難時に「戻る場所」ができる
  • 孤独感が軽減される

産業医面談でも、価値観がしっかりしている人ほど、回復が早いケースは珍しくありません。

ただし、強すぎる信念は逆に苦しみになることも

  • 職場での対立を生む
  • “こうあるべき”で自分を追い詰める
  • 周囲との距離が広がる

信念は良薬にも毒薬にもなる。これは臨床の現場で非常によく見られる現象です。

職場で信仰に触れるときの注意点

宗教・信念の話題は、管理職でも産業医でも慎重さが欠かせません。
なぜなら、価値判断が入りやすい領域だからです。

関わるうえで大事な姿勢

  • 否定も肯定もしすぎない
  • 宗教そのものを評価しない
  • あくまで「健康」と「働き方」に焦点を当てる
  • 本人の尊厳と多様性を尊重する

管理者や同僚も、相手の信仰を理解しなければいけないわけではないですね。
ただし、否定しない態度が安心感につながるのは事実です。

産業医としてどのように支援するか

信仰や信心を扱うとき、私は次のような視点で整理します。

面談で見るポイント

  • 日常・業務への影響度
  • 信念が本人にとってどんな意味を持つのか
  • ストレスの受け止め方にどう影響しているか
  • 葛藤や悩みの背景

信仰が支えになっている場合は、それを尊重します。
逆に、信念が苦しみにつながっている場合は、
宗教そのものではなく健康と環境の問題として整理していきます。

必要に応じて行うサポート

  • カウンセリング的な整理
  • 職場環境の調整
  • コミュニケーション改善の提案
  • 孤立感を減らす支援

信念の違いで孤立している方には、人間関係の橋渡しをすることもあります。

まとめ:信心を理解することは、その人を理解することに通じる

信仰・信心は人の深い部分にあるテーマです。
だからこそ、職場では尊重しながら距離感を保つ姿勢が不可欠です。

  • 信念は心の軸になる
  • メンタルヘルスに良くも悪くも作用する
  • 職場では価値判断せずに扱うのが安全

自分らしく働くには、信念と健康のバランスを保つことが重要ですね。
職場での信仰や価値観にまつわるしんどさ、それをどう扱うかについて悩む場合は、遠慮なく産業医を頼ってください。

あんどもあー

論語には、

「子不語怪力乱神」──子は怪力乱神を語らず(述而篇7-20)、
すなわち「孔先生は怪力乱神(という不確かなもの)について語ることはなかった」とある。

「自分のコントロールできないもの、自分の範疇にないものは語らない」ということなのだろう。
実際に孔子が超常現象についてまったく触れなかったかはわからないが、
孔子の求めた仁や礼とは相容れないものであったことは確かであり、
だからこそ「子不語怪力乱神」だったのだと思う。

精神医療業界では

医療、特に精神医療の業界に身を置いていると、宗教や信心と出会うことがある。
特にカルトや新興宗教の類だ。

宗教や信心は、精神医学とは相容れず、医学とも相容れないことが多い。
特にカルトや新興宗教はその傾向が強い。

「すべての病がこの水を飲んでいれば良くなる」と売りにしている宗教の仲間が、
ある統合失調症の患者さんに対しては
「お前のこの薬だけは飲んだ方が良い」と助言していたことを知っている。

また別のケースでは、
「信心していれば病は治る」と主張して乳がんを放置し、
病変が“花開いて”しまうほど悪化し、亡くなった患者さんも知っている。

科学信仰

しかし、「現代の科学ですべてが良くなる」と信じ込むこともまた、
「科学信仰」のようなものだと思う。
科学信仰がプラシーボ効果を生むこともある。

といって、

  • 「医学が進めば病がみんなよくなり、皆が幸せになる」
  • 「医療はすべての場面で介入するほど良い」
  • 「産業場面でもどんどん積極介入した方が良い」

といった盲目的な医学信仰もナンセンスだと思う。

医者をやっていれば、「命が助かったための不幸」に出会うことは少なくない。

医学が万能ではないということは、他のものが有効である場合もあるということだ。
科学的な枠組みだけでは説明できないこともある。

陰謀論者が好む
「AではないからBだ」というシンプルな説明は魅力的だが、
社会的事象はそんなに単純には成り立っていない。

陰謀論とは、救いのないままのカルトのようなものだと思う。
そして、救いを求めての信心なのに救われないというのは、とても不幸なことだ。

人を「救う」

宗教や信心は、人を救うものだと私は考えている。

ここでいう「救う」とは「幸せにする」ことではなく、
多くの場合は 苦痛の除去 である。

「幸せ」とは、しばしば苦痛の裏返しにすぎない。

呼吸困難を経験した人は「普通に」呼吸できることを強く求め、望むだろう。
しかし私も含め、多くの人は、普通に呼吸できることに感謝することはほとんどない。

私は鼻の手術後、1週間ガーゼを詰めていた期間を経て、
それを取り除かれたとき、「普通に」呼吸できることに新鮮な喜びを感じた。
しかし20年経った今、その感覚はおぼろげにしか思い出せない。
「普通に」呼吸できることは素晴らしい。
しかし困難を経験しない限り、普通に行えることに喜びを感じることはない。

信心も、多くの場合は苦痛の除去が最初の動機なのだと思う。
何かに苦痛を覚え、救いを求め、
そこに信心が答えや手応えを与えてくれると感じることで、
信心が始まるのだろう。

信心でしか救われない人がいる、ということも私は否定しない。
この世は不幸の種であふれている。
突然の怪我や病はその最たるものだ。

そして信心を持つ人は、突然の不幸に耐える縁(よすが)を持っていると言えるのかもしれない。
それは幸いなことだと思うし、少し羨ましくもある。

自分事として

しかし、自分が信仰を持つにはもう手遅れなのだとも感じる。
理系人間として頭でっかちになり、科学信仰に毒されすぎている。
医者という職業は、いわば科学宗教の実践者にほかならないのだから。

VUCAの時代という流行り言葉もある。
「100年に一度の激動!」などと30年前にも50年前にも言われ続けている。
そんな不確かな時代を生き抜くために、信心が役に立つことはあるのだろう。

孔子も「怪力乱神は存在しない」とは言っていない。
ただ、それについて語らなかっただけだ。

私は「信心も役に立つことはある」とは言える。
だからといって、他者を巻き込んで不幸にするカルトの存在を支持するわけではない。

しかし、人は自分一人で信じ続けられるほど強くはない。
だからこそ宗教が作られてきたし、これからも人の世にあるのだろう、と考えている。