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「生き方としての苦しみ」「人生の課題」と、「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」をごっちゃにしない

ある人が精神科を受診するのは、精神症状があるからです。まあたいてい。
不眠や頭痛、抑うつ気分、躁状態、パニック発作など様々な精神症状があります。
でも、精神症状があるからと言って、「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」であるとは限りません。
「生き方としての苦しみ」「人生の課題」から来る精神症状である場合もあります。しばしば。
 
 
「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」というのは、
はっきりとした原因は不明ですが、その存在を否定しようとしても、歴史的に存在が証明されている古来からの「病気」です。
代表的な診断は統合失調症やうつ病、躁うつ病。
生物学的、脳機能的な病気であり、心理的要因で起きるものではありません。
治療としては、薬物療法や電気治療といった、物理的、科学的な治療が有効となるものです。
「生き物としての病気」なので、極論すれば本人の改善の努力に関係なく、薬が効けば良くなります。
 

一方で、「生き物としての病気」ではなく、「生き方としての苦しみ」が精神症状として表れてくる場合があります。
本人の生まれや育ち、理不尽な出来事、人生の逆境など、「そこから逃れたい、今の状況では嫌だ」という心理的な要因が、苦痛の表現として精神症状として表れます。
「生き方としての苦しみ」であり「人生の課題」です。
診断名としては摂食障害やパーソナリティ障害、嗜癖行動、適応障害などがこれに当たります。
治療としては、薬物療法は補助的な役割に留まります。
人薬や時薬、本人や環境の変化が改善のためには必要です。
改善のための本人の努力はほぼ必要。
自分は何もしないで良くなった、という人は少ないでしょう。
 
 

良いとか悪いとかの価値判断ではなく、違うものだ、ということです。
と言って、すべての状況がどちらかに分けられるかと言ったら、そんなに単純でもありません。
統合失調症という「生き物としての病気」を持つために、生活困難という「生き方としての苦しみ」が出てくる、そういった状況は当然あります。
それでも、「どちらが優勢で、どちらから対処するべきか」は決まってきます。
 

|病気は薬で、苦しみは工夫で|
「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」に対しては、
薬物療法を中心とした医療が必要です。本人の気合いや努力だけではどうにもなりません。病気ですから。
専門家である医師や病院の知識や力で、敢えていうなれば、「される/してもらう」治療が中心になります。特に治療の前半、良くなり始めて維持期になるまでは。
維持期になってからは、「その病気と共に生きる生き方の苦しみ」になってきます。
 
「生き方としての苦しみ」「人生の課題」に対しては、
その苦しみにどう対処するか、どのように乗り越えるか、そもそもその苦しみをどう認識して、どのように攻略していくか、それに寄り添い、手助けすることが治療者の役割になると思います。
治療者を「ちっとも良くしてくれない!」と責めるのは勘違い。
その治療者に巡り合ってしまったのは仕方ないとしても、うまくいかない関係の治療者からは離れていくことは本人の役割です。
 

<混ぜるなキケン>
「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」を「生き方としての苦しみ」「人生の課題」として扱ってしまうと、
端的に言って良くなりません。
にもかかわらず『良くならないのはその人の努力が足りないからだ!』と本人が責められてしまったりします。
とても不幸。専門家の不在による不幸です。
 

逆に、「生き方としての苦しみ」「人生の課題」を「生き物としての病気」「狭い意味での精神の病気」として誤診されてしまったり、本人がそう思い込んでしまうと、これまたよくなりません。必要な工夫がなされません。
そしてこちらは処方薬依存や精神医療依存になってしまったりします。とても残念なことに。
<混ぜるなキケン>
 

|間違わないためにどうしたら良いのでしょう?|
決めつけないこと、簡単にわかってしまわないこと、自分の判断を疑うこと。
メンタルヘルスに限らず医療の基本ですが、それに尽きます。
一撃でスバラシイ対応をしているような名人ほど、自分の判断が外れたときにどう変化させるのか、それを織り込んで対応しているものだ、ということはわかるようになりました。
まだ同じことができるとは言えませんが、それが見えるようになったことは自分の進歩ではないかな。
 
この項ここまで。